夜の旅、その他の旅

持ってるレコードとか日常とか。

あたしのワンちゃん、あなたの心の美しさはあたしの中で永遠に生きて

ぜっぷさんのMixi日記で彼の素敵な子犬ちゃんの話にコメントしたら自分の飼っていた犬の話がしたくなった。
彼の名前はジロー。
坂上二郎に似たたれ目だったので私が付けた。

彼と会ったのは私が幼稚園に入った年で、私は4歳だった。
住み慣れた横浜から東京の小金井市に移ってきて何もかもが不安でチックになったり瀕尿症になって一日に80回もトイレにいったりと随分親を悩ませていた。
たぶんそんな私を見兼ねていたのと、自分自身が元来の犬好きだった母はクリスマスに子犬を買う約束をしてくれていた。
当時良く家族で行っていた中野のブロードウェイ(両親は上京当時中野に住んでいたので馴染みがあったらしく小金井に越してからは頻繁に私を連れて中野へ出向いていた)のケンネルで好きな犬を買ってくれるという事になっていた。

クリスマスが近付いてきた12月のある日の朝、母と歩く私はいつものように道すがら会う犬達に挨拶をしながら、イヤな幼稚園に向かっていた。
金持ちの歯医者の息子のA君の家のコリーは有名なバカ犬だったが、今にして思えば吠えかかる事もない性格の良い犬だった。
その隣家のスピッツは私を見ると親のかたきのように吠え続けたが、私だけではなくみんなに吠えていたので自分は番犬としての仕事を全うしようとしていただけなのだろう。
そんな犬達の住んでいる一本道を歩いていくと、幼稚園はすぐそこだ。
その道の終わる角にはお寿司やさんがあった。
今時は絶対なさそうな赤い看板で「すし」と書いてある。
私はこの看板が見えるともうじき幼稚園なのを思い知りいつも気分が悪くなっていたのだがこの日は違った。
呆然と歩いている私の50メートルほど前に子犬を抱いたおばさんが現れその輝く子犬を路上に置き去りにしていったのだ。
何か用事があるに違いない、あの子犬はおばさんのものに違いないと思ったのでそのまま黙っていたのだが、どうも釈然としない。
その子犬の横にさしかかり、当然のごとく私はその子犬を撫でようとした。
母にこの子はさっき知らないおばさんがここに置いていったんだよ、といってみた。
当時はそこら辺に犬がいたところで驚く人はいなかったので母もその子を撫でながらそーお?などと言っていたがその犬に気持ちが傾いていたのだろう。
詳しい状況を聞いてくれた。
私はもう既にこの犬は私の犬だと心に決めていたので、あのおばさんはもう絶対に戻って来ないし、どうせ犬を飼ってくれるつもりだったのならこの犬が良いと言った。

母は、そんなことはない、きっとその人は戻ってくるに決まっているし、よその犬を勝手に連れていってはいけないなどといった。
もうその頃には私は子犬と離れ難く、ケンネルの犬なんか欲しくない、このこじゃないなら犬なんていらないと断言していた。
ジローの目は垂れているだけではなく小さくって目やにでドロドロだった。
それでも私は世界で一番私に必要な犬だと思った。
過去を美化しているわけではなく、心の底からそう思ったのを覚えている。

それでもその場はその犬をおいて幼稚園に向かうしかなかった。

幼稚園が終わり、迎えに来た母に「あの犬はどうした?帰る時もまだいた」としつこい私に母は何故かはっきりした返事をしない。
とうとう歩きながら私は泣きだした。あの子が良かったのに。あの子は今どこにいるんだろう?
家に近付いた時に母は信じられない事を言い出した。
実は帰りにもまだいたので、家に連れて帰ったのよ、と。

確かに彼はいた。
玄関のコンクリの上に何か敷いてもらってにこにこしていた。
母も私ももう、このこを手放す事は考えられなかった。

問題は父を説得する事だった。
犬を飼う事はしぶしぶ了承していたがこんな捨て犬は駄目だといわれて母も引き下がれなかったらしく「今晩一晩、静かにここにいて、家に上がる事もしなければ良いでしょ?」という条件を出した。じつは子どもの頃犬を飼っていて戦時中もその犬を探しに走り回ったという父は子犬が泣かずに一晩過ごすなど不可能だと思ってそんな条件を出したのだろう。

両親は意地になって夜中まで見張っていたらしいが、この幸運なやつは子犬の常識を破って一晩中クンともワンともいわず、玄関に上がろうともしなかったと言う。
翌朝勝ち誇ったような母と知らせを聞いて満面の笑みの私は犬の名前を決めた。

近所中にこんな犬はやめなさい、子犬はコロコロして目がきれいじゃないと駄目だよ、などと言われたが、母は「この子は良いこなんです。なにしろ一晩中じっと鳴かずにいたんですのよ!」などといばりくさって、私もその横で、ジローとともに鼻の穴を膨らませて自慢げに立っていた。



この項続くかも、続かないかも…。